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December 20, 2004

第一作目「意識さえずり」を語る_その1

「意識さえずり」1997年 8ミリFILM
この作品は、私がツタヤを辞職し。まだ四谷3丁目に在ったイメージフォーラム付属映像研究所の第20期の卒業制作である。入所した時から、課題には目もくれず、卒業制作していた。課題は、卒業制作の一部分を提出しやり過ごしていた。この頃のイメフォは特待生制度があり、通常1年のところ、2年目も在籍出来て学費は無料になるのだった。これを目指していた。同期生は全員ライバルと思い、全てのクラスによく忍び込んで、どのレベルに自分がいるのか調べたりしていた。で、数人にライバルを絞り、作戦を練った。実験映画の歴史も勉強し、自分の作品の位置も探った。で、作戦は、実験映像の分野では、目新しい映像の実験は既に終わっている。逆に私的なドキュメンタリーは、ありふれた内容が多いし、それを毎年繰り返している。それならば、もっと実験映像をナラティブ性の強い私的ドキュメンタリーの語り口に取り込むべきだ。と。その結果、虚構性の強い作品になっていった。その流れは2作目「ヒダリ調教」で完成されたと思う。さて、この頃は河瀬直美「につつまれて」大木洋之「HEVEN6BOX」など優れた作品があった。それらは、イメフォ生徒に大きな影響を与えていた。私は、その当時のそんな美的感覚を繰り返し、同じような作品(特におばあちゃんとかまだ見ぬ家族とかを静かに語る系)を作る生徒達に腹が立っていた。8ミリという個人的なメディアの性質に引きずり込まれた作品にはウンザリ。そんなイラダチも怒りとなり作品に加味された。結果は、計画通り特待生になった。無視出来ない作品を作り上げようと狙い成功出来た。特待生にならない他の生徒らは、すぐ消えた。もしくは卒業して最初の一年目くらいは映像作家チームとか作り映写会もしていたが、二年目には消えていた。自分は消えたくなかった。必死だった。特待生になれなかったら、今は生きていなかった可能性がある。いや、本当に良かった。完成した翌年、大木さんが、この作品をイメフォグランプリという勘違いを広めてしまい、それを聞いた人たちから「おめでとう」と言われた。受賞してなかったので、とても苦しい時期もあった。後にバンクーバーやロッテルダム国際映画祭で上映されることになり、ホッとした。ごく一部に知られている有名な白川5カ年計画がある。イメフォに入る前に誓ったものだ。1年目:特待生になる 2年目:国際映画祭で上映される 3年目:映像作家と呼ばれる 4年目:劇場公開する 5年目:家を建てる(笑)家は建てられなかったが、全部現実のものに出来た。今、新しい5カ年計画を立てなければと思う。スタッフと一緒に上を目指したい。
(その2は、また近日。)


投稿者 白川幸司 : December 20, 2004 06:02 PM  [ 白川監督の独り言]

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