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August 05, 2004

エレファント・マン

THE ELEPHANT MAN(1980/David Lynch)

日本での初公開は1981年だったそうだ。
作品生誕25周年としてニュープリントでの再映。

2004年11月中旬 銀座テアトルシネマ、池袋テアトルダイヤにて
レイト・ロードショー 順次全国公開


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25年前は350万人動員したそうだ。
俺の映画の記憶の中でもかなり古い部類に入るのだが、実は初見。
では、俺は何を記憶していたのかと言うと、TVで繰り返し流れていた予告編である。

資料によると、当時はヒューマニズムに乗っ取った広報を展開していたらしい。
それで多くの動員を達成したというのは、当時の時代背景を振り帰ると、呆れるというか、微笑ましいというか。あるいは、広報の担当者の達観か。

鼻。女らしい。象。描かれた女。森林。象の目。倒れる女。象の群れ… ファースト・カットの鮮烈な衝撃は、リンチの宣戦布告であり、所信表明であり、明確な意思表示であると読み取る。明かに、ジガ・ヴェルトフやエイゼンシュタイン、そしてゴダールを意識した“モンタージュ”に、底知れぬ安心感を得る。「この映画は間違い無い」と思った。

前半は夜や密室でのシーンが多く、サスペンス・ホラー仕立て。件のエレファントマンもその容貌の全てはさらけ出さず、異様な期待感と恐怖感が映画全体を包み込む。深い陰影に彫り込まれたモノクロームの映像は、見える部分と同時に見えない部分を演出する。

産業革命真っ只中のロンドンは、煉瓦作りの巨大な建造物と工場から絶え間無く流れ出る噴煙によって、都市を照らす日の光を遮り、都会に陰が生み出された。資本家と労働者。貧富の差。暗い路地を曲がると、そこには見知らぬ世界が広がるという不安感。

シークエンスの合間に挿入される暴力的な映像と音の交錯という映画原理的な“モンタージュ”は、物語に依存しつつある意識を、感性と感受性に引き戻し、けたたましく警鐘を鳴らす。

物語の後半、その醜い姿を晒すことによって、漸く他者とのコミュニケーションを築き始めたエレファントマンは、日の光を浴び、大勢の前へと迎え入れられていく。人間性を確認されることで、エレファントマンの持つ内面と外見の矛盾が神格化され、上流階級の人々はこぞってそれを持て囃すようになる。

聡明で麗しき紳士、淑女の生活そのもののような、華やかで淀みなく当てられた照明は、醜悪な容姿とその作為性を主張し、画面一杯に展開する登場人物と豪華絢爛な装飾物とあいまって、物語の寓話性は一気に加速する。前半と異なってコントラストを失った映像は、相対的な効果によって焦点の曖昧さを導く。二元論的な構成の陰陽の映像から反転した白い世界は、良く見え過ぎるが故に、観る者により一層の集中力と緊張感を要求する。

特殊メイクによって固定されたエレファントマンの表情は如何なる状況でも動かず、その表情を読み取ることは果たして出来ない。それは物語の根幹を成す“他者を見て判断すること”への危険性を示唆し、また同時に、逆説的には既に我々が判断してしまった、あるいは無条件に判断を下してしまうキャラクター達の大いなる可能性を形成し、映画という枠を超えて登場人物により一層の深みを与える。

物語的な意味付けからしか人間性を想像することが出来ない、というテクニカルな必然性から与えられた主人公の存在が、光が陰を為すような相関性を想像力の中に閉じ込めることに成功し、この「真実に基づいた」寓話は、神秘的な“イマージュ”が織り成す“モンタージュ”の無限性そのもののように、一元的な捉え方を拒絶し、深き人間論を我々に提示する。

配給 ザジフィルムス
http://www.zaziefilms.com


投稿者 井川広太郎 : August 5, 2004 11:19 PM  [ 映画REVIEW]

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