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あれは2001年4月のことであった。あの日に全ては始まった。私は常連であった飲み屋の花見に参加していた。美味しいバーベキューと大量のお酒に囲まれて、ヘベレケ状態であった。帰宅後、即爆睡。翌朝不思議な感覚に目が覚めた。右手がしびれて動かないのである。「あれ、体の下に右手を置いてたのかな」と気にしてなかったが、昼になっても動かない。2日たっても動かない。焦りまくる。「もしかして糖尿?」と直感。実はここ数ヶ月で体重が25キロも激減していたのだ。1時間毎にトイレに行かなければならない体にもなっており、少しは疑っていたのであった。検査すると血糖値が500近い。重症だった。糖尿といえば失明。映像に携わる人間には死を意味する。楽観的な私も落ち込んでしまった。しかし、もう一人の自分がささやく。「もしかしてオイシイかも・・・」「落ち込んでいる今っていいシナリオ書く時なんじゃないかな・・・」。その頃、短編を撮ろうと思っていたので、短編を4つを書く。我ながら傑作。そのひとつ「眠る右手を」を長編に発展出来るのではないかと思いつく。この時は夫婦だけの話。とても救いのない無常なだけの話であった。とにかく急ぎ第一稿を書き始める。第一稿読まれていた方もいるかもしれないが、HP上で公開しながら進めていった。角屋さん(制作部)に相談すると、「夫婦の描写が恋人みたいなので子供を登場させればいいのではないか。」など助言をもらう。即、第2稿に取りかかる。やはりHP上で公開していったら、反響が大きかった。6月になっていた。ちなみに糖尿病は薬により、大きく改善していた。とは言っても不治の病なので、一生付き合っていく病気である。まだ改稿の余地が多かったものの、第2稿を元に資金集めを考え始めなければならなかった。さて、資金はどうしたものか・・・あまりにも規模が大きすぎるので、これまでの製作体制では無理があったのだ。おかね・・・おかね・・・笑(第2話へ続く)
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資金を得る為にするべき事は、これまでの作品と今回の企画書(シナリオも第2稿あったし)を活用することだった。しかし、私のこれまでの作品は、どれも実験映画である。前作「ファスナーと乳房」も実験的要素の強い短編物語であった。実験映画って業界では哀しいことだが、あまり評価を受けないジャンルである。海外ではジャンルに囚われないで受け入れてくれる土壌がある。幸いにも私のこれまでの作品は、イギリスの映画評論家(作家でもある)トニーレインズさんの強力なバックアップがあり、国際映画祭等での評価はあった。これをフルに活用しなければならない。まあ、本当なら実験映画で培った映像力を物語映画に取り入れたらどんなに面白い作品になるのか想像してわくわくしてくれる様なスポンサーを見付けなければならないのだが、そう甘くはないだろうと思った。他のインディペンデントの監督達と同じように、私も資金源にはまったく知識もコネもない。その時締切が迫っていたサンダンス日本部門(1000万円)と国際交流文化基金のコンペ(1000万円)にあわてて第2稿を送る。どちらも見事に落選。知人と某配給会社にお伺いし、これから先、難しいなあという感触を得る。どうしたらいいのだろう。結局、物語映画をこれまで作ってきていない私なので、きちんと「もの語り」出来るのかという疑念を拭い去れないのではないのか。海外だけの評価を売り込んでも効果がないようにも思えた。国内の映画祭でグランプリを取ることの方が、国内の業界には売り込みやすいなどとよく耳にした。完成したらいい作品になるのになあと自分自身のプレゼン能力のヘタさに苦い思いをする。こういう時にプロデューサーが居てくれたのならどんなに助かるだろう。日本に映画プロデューサーって生きてるのか?どこに居るのか?と嘆く。資金の話と同時進行でスタッフ&役者集めを始める。後で後悔したのだが役者集めはスタッフとは別に展開すべきだった。連絡などに混乱が後に生じてくる。募集媒体は主にネット。第2稿をアップし参加者を募った。割と反響が大きく、参加者リストを作ったり、掲示板で交流を促進したりした。このリストや交流は後に賛否を起こし、廃止することとなる。人間関係は難しい。映画スタッフが多くなればなるほど、私の雑務が多くなっていく。こんなはずではないのにと身動きがとれなくなってきた頃、資金源をゲットすることに成功する。それは愛知芸術文化センターからの一通のメールであった・・・・(第3話へ続く)
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愛知芸術文化センターのメールにはこう書かれていた。「作家選定コンペに現在1位で名前が挙げられている。受諾しますか?」私は飛び跳ねた。メールでこれほど喜んだのは初めてな位に。作家選定コンペとは、愛知芸術文化センターが毎年1名の映像作家を選んで制作資金を援助するものである。作家選定委員は竹葉丈・とちぎあきら・平野勇治・村山匡一郎の4氏。これまでの作家としては、ダニエルシュミット、大木裕之、園子温などの顔ぶれが並ぶ。昨年、劇場公開された「ボディドロップアスファルト」なども記憶に新しい。その企画の11人目に選出されたのが私だった。金額は通常の映画製作と比べると低い。選定委員からは「きちんとした資金で撮った方がいいのでは?」との声もあった。このコンペは他からのスポンサーを禁じていた。なんとかこの額で撮るしかない。シーン数は190、シナリオは映画2本分の量があり、ある意味チャレンジでもあった。資金を獲得したことで、急速に動きが早まっていった。早速ネットで集めていたスタッフから「制作部」を作る。会議中にアート情報誌「HTWI」の取材を受ける。(11月号掲載)この時点での私の意気込みが伝わるだろう。その会議でスケジュールと 組み立てた。
09月:ロケ先決定
10月:オーディション告知・スタッフ編成
11月:役者決定・美術製作開始・衣装製作・顔合わせ
12月:撮影
01月:撮影
02月:編集
03月:愛知芸術文化センターへ納品
準備を急がなければならなかった。大規模な役者オーディションをすること になり、ネットで募っていた役者の方をいったん放出し、オーディションに再応募して平等に資料選考することになる。身を切られる決断。反対意見もあったが割り切ることにした。この厳しさはスタッフ編成にも現れてくる。希望と違う部署になるスタッフも出てきた。この時点で助監督が居なかった。候補者はすべて様々な理由で消えていった。結局制作部から1名選ぶことになる。特殊メイクは東京ビジュアルアーツから参加して頂くことに。現場参加は授業と見なされるそうだ。メイクが最後まで難航したが、コモーションに登録していた蓮氏にお願いすることになった。撮影監督もなかなか決まらなかったが、急遽、井川氏にお願いできた。彼はいつも絵作りを優先するタイプでないとこれまでの彼の作品で思っていたが、嬉しい誤算で、素晴らしい仕事をしてくれることになる。ここで紹介したいユニークな人物が居る。美術・照明の村野氏だ。ネットでスタッフ募集を開始した時、私は彼を、名前で検索したりして捜していた。彼のセンスが欲しかったのだ。奇跡は起きた。村野氏からメールが来たのだ。映画を作っていると時々「映画の神」がいるのではと思う瞬間がある。処女作の「意識さえずり」では山奥で「今、白い犬が現れたら、それは自分だ」と思ったら、実際に白い犬が現れた。興奮した。村野氏の偶然のメールにもそうした神懸かりなモノを感じた。村野氏は武蔵美卒でイメージフォーラム付属映像研究所での私の同期である。同期生時代から我々は浮いていた。こう言うと彼は怒るが、彼はイメフォに毎回チベット民族のような衣服と胸まで伸びる長い髪という怪しげなオーラで他を圧倒していた。私はこういう「キテる人」が大好きなのだ。「眠る右手を」のビジュアルに、アジアンテイスト「現代版どですかでん」を求めていた。村野氏はすぐに反応した。その時、彼は北海道に生息していたのだが、軽トラを購入し、私のボロアパートに9月は居候することになる。10月11月はずっとほとんど一人っきりで主人公達の「家」を千葉県館山市に泊まり込み作っていた。ぜひとも彼の創造した「家」を本編で堪能していただきたい。
こうしてスタッフは活動を始めていた。しかし私達は一番大きな準備をしなければならなかった。役者である。「眠る右手を」は台詞劇なのだ。これまでの作品と違い、空気感とか知り合いとかそんなことでは選べなかった。演技力、台詞力で選ばねばならなかった。オーディション自体初めての経験だったが、私はより適した人材を捜すために大きく出た。プロアマ混合のワークショップ形式でのオーディションを決行した。キャスティングには(有)カレラの助けをお借りし、月刊デビューなどの媒体にも露出していった。ネットでの募集やプロダクションへの募集などルートも多岐にわたった。総勢3000人の候補者にまで膨らんだ。さてここからが、本当に過酷な役者の戦いが始まるのだった。それは私達スタッフの意識も大きく変える戦いだった・・・・(第4話へ続く)
アート情報誌 http://www.htwi.org/
月刊デビュー http://www.keibunsha-net.co.jp/deview.html
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資金を得る為にするべき事今回の「眠る右手を」には、圧倒的に台詞が多かった。台詞力のある役者を探さなければならない。プロアマ混合のオーディション、しかもワークショップ形式という過酷な道を選ぶ。白川との相性も見たかったし、何と言っても役者同士のバランスを最優先に考えた。月刊デビューなどの露出もあって応募者の書類の山があっという間に出来上がった。最終的に3000人分の書類が集まった。郵便のみの受付のはずなのに、何人かは事務所にやって来たので、正直困った。近所にも迷惑を掛ける人まで出てきて、退室勧告を管理人から受けることになる。頭を下げ謝罪して何とか退室は免れる。次に応募者全員に私達の誠意と公平さをアピールしようと、出来る限り応募者全員に応募受理報告や作品資料を返信した。これも失敗。FAX代だけでも7万円になった。初めての事ばかりで失敗の連続だった。第一次審査は書類選考だった。写真をメインにイメージに合うかどうか審査していく。写真は大切だ。中には妙な写真やおまけも多かった。身の上を語る人もいれば、白紙の人もいる。本当にいろんな役者志望の人がいて、その多さに驚いた。白川はこれまで友人知人などから「この役やってよ」とオファーしてきた。しかし、世の中にはこんなにも「演じたい人々」がいるではないか。多くの自主映画の監督は、ほとんど役者を使っていないと思う。つまり彼ら「演じたい人々」から、私達自身がチャンスを奪ってきていたのではないかと思った。
ごたごた続きだったが、3000人から約100人まで絞り込んだ。書類だけでの選考なので、役者にとっては、ある意味「運」もあるだろう。そんな要素も含めてオーディションなのだろう。私の目は先に向かった。次に、いよいよ実技選考、つまりワークショップ形式オーディションが始まろうとしていた。全員に簡単なオーディション用脚本を渡していった。すでに11月に突入していた。私の頭はオーディション以外にもロケ地探索やスタッフ募集、絵画アニメーションチームの立ち上げ、電話番など様々な事に煩わされていた。制作部にキレることも多くなった。「このままでは、私は作品から遠ざかるばかりだ。これではいけない。」私は雑務から強制的に離れることにした。制作部は更に混乱していくこととなる。
さてオーディション用脚本をここに公開する。オーディション用脚本は2つ に分かれる。シン・ケイ・ソラ・ケンケンの軸になる4人で固めたAチーム と、サチ・ロウ・カイ・ナミの個性的キレキャラ4人で固めたBチーム、この2グループの為に白川が書き下ろした脚本である。それぞれの脚本は所要時間5分の舞台変わり無し1ステージものである。4人それぞれが各役を把握し、相手のある演技をすれば、見事にまさに「舞台」となるはずだ。この脚本には、仕掛けがあった。「眠る右手を」の各役の精神面でのプロファイリングを一致させておいたのだ。オーディション用の脚本ではあるが、各役の演技は「眠る右手を」の登場人物達のものと同じになるはずである。ではその興味深いオーディション用脚本を公開しよう。(オーディション台本はコチラ)}
いよいよオーディションが始まった。まさに死闘。戦いだった。詳しくは、また次号のお楽しみということにします。次号ではコウ役の子役オーディションについても触れたいと思います。これがまた大変で・・(第5話へ続く)
実技オーディションは2002年11月4・5・6・8日の4日間に行われた。4日の初日は子役オーディションだった。多くの応募者から約20人まで絞り込んだ子役を審査した。コウ役は作品本編では台詞のない子役であるが、審査は以下の設定で行った。
設定1:もうすぐ授業が始まろうとしている。先生が宿題のノートを回収するだろう。
あなたは宿題をしてきたの で安心している。そんな時にあなたの宿題のノ
ートを、クラスで一番、嫌われている嫌な同級生が「貸してくれ!」と迫っ
てくる。すごいいじめっ子のその要求を断れ。
設定2:クラスで一番嫌われている同級生のいじめっ子という設定をクラスで一番仲
のいい親友に変更し、親友の「貸して」を断れ。
私が一番見たいのは、心理描写だった。心の動きを表現できるのかということ。設定1は単純に「イヤだ!!」と言っていれば良い。しかし設定2では様々な矛盾が出てくる。まず親友が「ノートを貸してくれ」と言ってくるが、ノートを貸してしまえば先生に怒られるのは自分である。親友と思っていたのに、どうして自分が怒られる事を、親友は要求するのかという矛盾。その戸惑いや悲しみを演技できるかという点を見たかった。ほとんどの子供が小学校2年か3年生であった。3人ずつの小グループ単位で審査がスタートした。いじめっ子と親友を演じたのは、何と私、白川である。子供達にとってあまりに不気味な同級生だったであろう。実際に、皆、マジに怖がっていたかもしれない。不良おじさんが「ノート貸してくれよぉ、っていうか貸せ!」と迫り、ノートをむしり取ろうとするのだ。ほとんどの子供は見事な演技?で嫌がった。トラウマにならないことを願う。さて面白かったのは設定2である。設定を丹念に説明した甲斐もあり、まさに「演技」をする子供達を目にすることが出来た。涙ぐむ演技、親友の暴挙に力が出なくなる演技など、まさしく「演技」だった。設定を理解し役になりきったのだ。「演技」とはこんなにも面白いものなのかと新鮮に思った。さて、シン・ケイ・ソラ・ケンケン・カイ・サチ・ロウ・ナミの主要8役のオーディションについて触れよう。11月5・6日の2日間を使って行われたワークショップ形式実技オーディションは、まさに死闘であった。簡単にどのような形で行われたのか説明しよう。3000人から選ばれた約100人の役者達には、白川がイメージした役を各々に告げていた。オーディション用シナリオをまず頭に入れること。衣装は各自で準備すること。そして、班分けをした。プロアマ混合チームを3組作り、演じてもらった。簡単に言えば、自分がシン役候補だとすると、同じ時間帯にいる役者達の中にシン役候補が2人いるのである。ライバルの演技を見ることが出来るし、自分の演技も相手に見られるのである。役者にとって嫌な時間だったかもしれないし、有意義な時間だったかもしれないが、まあ、それは役者各自の問題。某監督S氏の協力もあり、演出はハードを極めた。さて具体的流れは・・・シンAケイAケンケンAソラAで芝居して貰い、シンAがイメージに合わなければ、シンBにチェンジして、また芝居して貰う。ケンケンBとCも見たいので、ケンケンABCは順番で演じて貰う。ケイCはシンAと組み合わせると何かが引き出されると感じ、さらに変更、さらに変更・・といった具合に進めていった。台詞憶えが白紙状態の役者、クセの強い役者、手を動かさないとダメな役者、机を叩かないと大きな声が出ない役者、顔の知れた役者にビビる役者、自分の演技で頭が一杯で「相手のある演技」をしない役者、シナリオの第一印象が崩せず演出の変化についていけない役者・・・・脱落していく者も多かったが、初日の午後のある時間帯は見事だった。組み合わせの運もあるのだろうが、シンAケイAケンケンAソラAの各自が、自分の設定と相手の役作りを認識し合って芝居をしたのだ。「お金が取れる芝居」の空間だった。シナリオは元旦を迎えた家族の話だったが、まさに家族だった。自分で書いたシナリオだったが、「あ、こんな話の芝居だったんだ。」と再認識させられた程であった。かと思うと2日目の午前の組は問題だらけだった。各自が役にもなっていないし、そもそもシナリオを理解してないのである。更に反省点でもあるのだが、問題も出てきた。そもそもプロアマ混合にしたのは、公平さを考えた結果だったし、純粋に「演技」を重んじたかったからだったのだが、明らかにプロアマの差が有りすぎた。つまり足を引っ張られすぎるプロも居たのだ。組み合わせにもっと配慮すべきだった。オーディション前までの認識は覆された。公平さなど本来求めるべきではなかったのかもしれない。一番大事なのは演技の選考だったはずなのに、公平に公平にと配慮しすぎたのかもしれない。オーディションの厳しさを知り真剣に役作りをしてきた役者も確かに多かったのだが、中途半端な取り組みをしてきた人間に、私は怒っているのだろう。遠慮がちに振る舞わないで欲しい。皆、役を「獲り」に来ているのだし、遠慮はこういう芝居での選考の時には、かなり相手に失礼だと思う。(ちょぅと本音を爆発させすぎたかも・・・あらら)8日は最終選考や決定した役者の方との面談、写真撮影などだった。激しかったオーディションの為か、和やかな時間が流れた。私もホッとしていた。今回の選考のポイントは「演技」と「配役のバランス」だった。色々あったけど、とにかく準備段階の最大の山場を無事終了できた。後日、新宿で買い物中に「監督!」と声を掛けられた。振り返るとシン役でオーディションを受けていた某役者さんだった。彼が「次は、撮影ですね。頑張って下さい!」と言い残し去っていった。突然だったので、何も言えなかったが、涙が出そうになった。頑張ろう。頑張らねば!と心に誓った。(第6話へ続く)
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11月8日、キャスティングも決まり、ホッとしたのもわずかな間だった。いろんな課題はまだ山積していた。ただ、クランクインの日付だけが決まった。11月29日からだった。それまでにアレコレしなきゃと焦っていた。まずは、シンの描く家族の油彩が完成していく過程をコマ撮りアニメーションにしなければならなかった。約10日間ぶっ続けで油彩を描き、それを撮影するのだ。美大に油彩を描くスタッフ募集のチラシを貼りまくった。結果、タマビ、ムサビ、造形大から応募があった。美大チームを作った。まだ問題があった。普通のデジカメでは一度に撮れる枚数が数百枚なので、途中でメモリとかメディアを抜き差ししなければならないのだ。そうすると必ずデジカメはブレてしまう。DVでは解像度に問題があった。困っていたところ、自主映画団体の12の眼が、三洋電機から新型のデジカメを預かり自由に使っていいとの連絡があった。(もちろんデジカメのモニターもするし宣伝もするのであるが・・・詳細は三洋電機HPをチェケラ)このカメラは一度に数千枚も撮れてしまうのだ。スゴイ。油彩の問題はこれで解決し、大山チーフの元で美大チームの組織力戦になった。ロケハンも未だに残っていた。結局、クランクイン後もずっと探すことになる。他にも決まってない部署があったりして大変。助監督候補達の度重なる辞退やフェードアウトにも頭が痛かった。予算もマズーーい感じだった。自腹、持ち出し・・・もう最悪な展開だった。一番の原因はロケ先が館山だったことで、これが予算を圧迫していた。交通費も大変な額なのだが、一番の問題は食費、光熱費など生活費が膨大だった。ほぼ1ヶ月役者とスタッフ全員が合宿をするという無謀な計画だったからだ。今にして思うと乗り切ったのは奇跡だ。館山のロケ先の魅力が圧倒的だったので、決断した私を皆さんお許し下さい。会計の村岡さん苦労を掛けました。その館山のセットも未完成の箇所を残しており、クランクイン前は超急ピッチで作業をした。その美術監督の村野君は、その後、CGと照明担当の加藤君と共に宇多田ヒカル「SAKURAドロップス」にCG参加している・・・スゲエ・・・(加藤君は元々スゴイCGアーティストですが・・)えーーっと後は、11月は何が大変だったかなーーー思い出しながら書いています。クランクイン直前は死ぬほど忙しかったので、何をしていたのか明確でなく、混沌と大変だった・・という感じなんです。思い出したら、また書くことにして、さ、いよいよ次回、クランクインからの話を書きますね。超ーー大変だった現場・・・(第7話に続く)
三洋電機の新型のデジカメhttp://www.idshot.com/
(白川監督のカッコイイ写真とインタビューも掲載。うーーん、笑える・・)
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クランクインする日が来た。ロケ先は西新宿、シーンは濡れ場・・・ケンケンが連続して4人の野郎とHというシーン。演出のハードルは低いが、役者とスタッフ双方に度胸を試されるシーンを最初に持ってきたつもりだった。ケンケン役の斎藤さんにも、その意図は伝えたが、結構しんどかったようだ。翌日も撮影のはずだったが、スケジュール調整がうまくいかず延期に。いきなりの延期に正直びっくらこいたが、初日の反省を振り返るいい期間だと思い直す。次の撮影は、ロウ、ケンケン、客4人のゲイバーシーンを一日で全て撮り終わらなければならなかった。ロウ役の平井さんは、とても気さくな方で撮影現場の空気もいい感じになった。ゲイバーは@(アットマーク)という聾唖者の方々の間では有名なバーをお借りすることが出来た。おっしゃれーなバーだった。撮影は順調だった。客役の宮健にも細かいところで助けて貰った。これで都内ロケ2日分が終了。まだまだ撮影は終わらない。気が遠くなる。2ヶ月もこの調子なのだろうか。死んでしまうかも・・・と軽くこの時点では考えていたが、本当に大変なのはこれからだったのだ。いよいよ館山ロケが始まろうとしていた。館山撮影の4日前から続々とスタッフは館山入りをしていった。これから全員合宿なのだ。美術の村野さんが現場で苦労していた。美術セットが完成していなかったからで、前日まで残りのスタッフが手伝った。セットの出来は圧巻だった。現代版「どでづかでん」を発注していたのだが、見事に新しい世界観を構築していた。壁からドアから照明器具からすべて作ってくれた。リビングの中央には、これまた手作りの食卓があった。大小様々な色に輝く小石を敷き詰めた美しい食卓!素晴らしい。トラブルも既にたくさんあった。3つあるお風呂のうち使えるのが一つしかなかったからだ。近所の銭湯に通うことになってしまった。まあ、それはそれで楽しかったけど。食事も壮絶だった。多い日は20人を越える人数の食事を作るのは梶田さん。予算の関係で毎日激少ない食費をやりくりしてもらった。結果、残ったおかずをジャンケンで奪い合う野生をスタッフは取り戻していくことになる。撮影監督の井川さんが絵コンテ作りをし、構図プランを考えてくれた。今回、作品の前半は目まぐるしい展開にしようと考えていた。目まぐるしい撮影手法、目まぐるしい音響、目まぐるしい演技である。後半に引き立てたい効果を狙い前半はびっくり箱みたいにしたかった。絵コンテを元に、ビデオコンテも作っていった。実際に役者代役を立てて、本番さながらに撮影するのである。スタッフのリハも兼ねていた。今回の撮影スケジュールが非常にタイトであったので、現場周辺の動きを全員がリハする必要があったのだ。あっという間にそんな日々も終了した。そして、いよいよ館山撮影初日を迎えようとしていた・・・(第8話に続く)
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