|
切なくも愉快な漂流の連続に心地よくまきこまれながら、ぼくらは深く納得する。 映画でしか発見できない都市の情景があり、 映画によってしか結ばれえない人と人の関係があるのだと。 含羞と豪胆をあわせもつ、このまぎれもない傑作とともに、 日本映画には新たな彷徨いの楽しみが開けた。 酔いながら覚め、覚めながら酔うという難行を第一作であっさり成し遂げた、 井川広太郎監督とその仲間たちの快挙に乾杯だ。 野崎歓 (フランス文学者) |
|
『東京失格』の俳優たちが酒場や路上で交す言葉の心地よいしなやかさに触れていると、
監督と俳優たちが少なからぬ時間をかけて築いてきたであろう現実の人間関係の深さがいやがおうにも想像されてしまう。
しかし、ここには内輪ネタの閉鎖性もないし、プライベート・ランゲージの気取りもない。
『東京失格』の素晴らしさは、身内の人間をただ普段着感覚で切り取ればいいといった安直な発想を厳しく排し、
スリリングな劇空間を構築するために沈黙、間合い、視線をいかに用いればよいかをとことん考え抜いた点にあるように思われる。
小気味よく演技の持続を断ち切る編集の上手さもあるが、『東京失格』のどんな些細な場面も緊迫感で漲っていて、
ここでは奔放さと構築性が矛盾しない。実際、いかにも即興的に演じられているかのようなシーンの大半が、
実はかなり忠実に台本をなぞるものでもあるという。井川広太郎、恐るべし。彼はまぎれもないカサベテス主義者だ。 主演俳優を務めた福島拓哉が自ら映像作品を手がける気鋭の映画監督である事実にも注目したい。 映画監督でもある俳優が、気心を知った監督の作品で主演すること。これは勝利の方程式である。 例えば、優れた映像作家でもある俳優・山本浩司と山下敦弘が組み、やはり映画監督でもある俳優・マチュー・アマルリックと アルノー・デプレシャンが組むときと同様に、井川と福島はカメラのこちら側とあちら側をホットラインで直結してしまう。 そして「笑い」や「照れ」に関わるもっともデリケートな領域で、演出上の高度な実験を次々と成功させてみせるのだ。 三浦哲哉 (映画批評・翻訳) |